パンクとはDIYの精神だとよく言われます。DIYと聞くと普通思い浮かべるのは日曜大工ですが――そしてたしかに楽器を自作してしまうミュージシャンもたまにはいますが――ここではそうした工作のことを言っているのではありません。Do it yourself! つまり、「自分でやれ」という意味です。ところで、これはたしかに正しい訳なのだけれど、僕はずっと違和感を抱いてきました。僕がパンクや、そこから出てきたインディ/オルタナティブ・ミュージックから受ける感動は、どうもそうした言葉ではとらえ切れないような気がしてきました。


あれこれ考え続けてきた結果、僕はこう考えるようになりました。DIYという標語には、誰もが直面せざるを得ない「限界」の意識が含まれていない、それが僕の違和感の原因だということです。DIYという標語は、「なんであれ自分ひとりでやることができる」、「たとえ障害があっても乗り越えていける」ということを前提しているように思います。できないことがあるなら、できるようになればいい、そうしたポジティブな考えが根底にあると思います。でも、それって可能でしょうか。


僕はそうは思いません。


僕が感動を抱くのは次々と自分の限界を乗り越えていく超人の作品ではなく、むしろ、限界に直面しながらも、いまの自分のできることでなにを作れるのかを試していく人の作品です。なにかをできるようになることを目指す人ではなくて、自分のできることから何が作れるのか知ろうとする人の作品です。これは本当に小さな発想の転換です。でも、こう考えるとずいぶん楽な気持ちになるのではないでしょうか。とくに、なにかを表現したいと思っているけれど壁に直面して焦っているひとたちは。けっこう根深い天才信仰に私たちは毒されているのかもしれません。


たとえば、とびきり美しい詩を書くことができるけど、本当は小説を書きたいと思って悩んでいる人がいるとします。僕はこの人が無理に誰かの真似をして下手な物語を書くことを望みません。いっそのこと、とびきり美しい詩を書くことのできる人が主人公の小説を書いて、そのなかに詩を織り交ぜればいいのです。物語はその詩を小説のなかに登場させるための必要最低限のもので構いません。もし、十分な長さの物語を書けないとしたら、同じことをちょっとだけ変えて繰り返せばいいのです。簡単なことです。


芸術があれやこれやとその可能性を追求してきた偉大で悲惨な歴史に対して、私たちが付け加えることのできることなどほとんどないでしょう。それでもなお、21世紀に生きる私たちになにか残されている可能性があるとしたら、それは誰もが逃れることのできない、すべてのひとに備わった特異性を開拓することではないかと僕は思っています。ここで僕は、その人が生まれつき、あるいはその人の人生のなかで身につけてきた「くせ」のようなもののことを考えています。そして、くせというのは、たしかにその人が最も良くできることなのです。